災害遺構を訪ねて10「昭和58年水害関係の碑他」

 昭和58年7月水害は益田川流域のあちこちに大きな被害を及ぼし、内陸部にある益田市美都町仙道でも、水に浸かった地域がありました。
 国道191号を益田から広島方面に向けて進んでいくと、仙道の市街地がありますが、その入り口付近には昭和58年水害の最高水位の表示があります。


 昭和58年当時は川幅が狭かったため、越水して街が浸かったようです。
 その後、3年をかけて河川改修工事が行われ、その完成を祝って作られた復興記念碑が、国道191号と益田川に挟まれた場所に作られています。

 裏面に刻まれた建碑史略には、昭和58年水害の概略と、復興への感謝が綴られていました。
 そして、この碑から少し進むと、国道191号と山との間に小さな社が現れます。
 社の後ろに倒れていた「むらおこし社縁起」という立て看板によると、元々は金比羅様を祭っていたものだそうです。

水神様を祭りしている「むらおこし社」。左手には子宝亀石という亀のような石がある。
社に掲げられている看板。これで「むらおこしさん」と読むそうです。

 昭和58年水害後の河川改修で祭られていた金比羅様は勧進元に返却され、社も解体になりそうだったところを地元の有志が引き取り、新たに水神様をお祭りし手再び水の災いが起きないようにお祭りしているのだそうです。
 そのおかげかどうかはわかりませんが、昭和58年水害以後、仙道地区が水に浸かったという話は出ていません。
 ところで、水神様をお祭りしているはずの神社の表示はなぜか「むらおこし社」。
 これで「むらおこしさん」と読むそうですが、水がわき出るようにいろいろな意欲が沸いて新しい地域作りの基となることを期待してこのような名前になったそうです。
 余談ですが、すぐ脇に「子宝亀石」と書かれた亀のような石が一緒にお祭りされていて、なんとなくほっこりとさせられました。

災害遺構を訪ねて9「昭和58年7月水害の氾濫水位の表示」

 益田市で大規模な水害自体は昭和58年以降起きていません。
 水害のあと、益田川堤防の強化や排水の整備、益田川ダムが建設されたことなどがその理由として挙げられると思いますが、以前は20年から30年に一度は大きな水害に見舞われていた地域でした。
 今回の災害遺構は平成15年に設置された昭和58年水害の最大水位の位置表示です。人の記憶というのは風化するようにできていますので、過去にどのような災害が起きてどうなったのかについては世代が変わってしまうときちんと伝え切れていることはまれです。そのため、碑や記録を残して後世に伝えていこうとするわけですが、それだけではなかなかイメージすることが難しいことも確かです。

 この表示は、昭和58年に実際に使った水位の位置を浸かったおうちにそのまま表示してあります。そのため、実際に垂直避難しても大丈夫なのかどうなのかが一目で分かるようになっています。
 以前は益田市役所にも表示されていたのですが、耐震補強工事の時に外されてそのままになっています。代が変わって建物も建て変わるうちにこれらの表示もだんだんと消えていっていますが、七尾町や本町といったエリアには、探すとまだいくつかの表示が残っています。
 実際にそれらの表示を探して確認しながら、いざというときにどのように避難すれば助かるのかを考えてみるのもよいのではないでしょうか。

災害関係の碑あれこれ

 災害が起きると、何らかの理由で碑が建てられることがあります。
 大きく分けると、教訓を示すための碑と、何らかの災害対策を行った者を顕彰するための碑、そして鎮魂のための碑です。
 石西地方では、私が知る限りは顕彰碑か鎮魂の碑なのですが、これはこの地方で起きるのは水害や大雨による災害が殆どであるため、教訓の碑を建てるよりも、実際に被害に遭わないために水に浸からない場所に居所を建て、水に浸かる部分は田として遊水池の機能を持たせて被害を最小限に食い止めるための行動をしているためではないかと考えています。碑は丈夫な石で作られているとはいえ、そのままでは時間の経過とともに記憶が風化して人々から消えていくものですから、教訓よりも行動で示しているのではないかなと思います。。もっとも、当地方でもいろいろと調べてみても由来がはっきりしない碑が多いので、、その中には過去の災害の教訓についての伝承のあるものがあるのかもしれません。
 教訓の碑としてよく知られている東北太平洋岸に点在する過去の津波被害の碑も、記憶の承継がされていた一部の地域を除くと、このたびの東日本大震災で「そんなものがあった」と注目を浴びるといった状態なので、意識しない限りは忘れ去れていくことは仕方がないのかなと思います。
 教訓を未来に向けて残していくためには、それをいかに日常生活の中に溶け込ませていくかが鍵になると思います。例えばインドネシアのある島では「歌」で津波の教訓を伝えていて、その歌が歌い継がれていた結果スマトラ大津波でも死者が少なかったという風に。
 そういえば、教訓の書かれた碑の中に、今でもそのように考えなければいけないのだろうなと思ったものがありました。

東桜島小学校にある桜島爆発記念碑。「科学不信の碑」とも呼ばれているらしい。
出展:桜島・錦江湾ジオパーク推進協議会ホームページ

 それは鹿児島県にある桜島で起きた、大正3年の大爆発のあと建てられた桜島爆発記念碑の一つなのですが、その中に「(前略)住民ハ理論ニ信頼セズ、異変ヲ認知スル時ハ、未然ニ避難ノ用意、尤モ肝要トシ、平素勤倹産ヲ治メ、何時変災ニ値モ路頭ニ迷ワザル覚悟ナカルベカラズ。(後略)(※1)」という一文があります。
 大正3年の桜島の大噴火では事前にたくさんの地震や井戸からの熱湯ふきだしなど、さまざまな異変が起きましたが、地元の測候所が「桜島は異常なし。噴火はしない」と言い続けていたため、それを信じた住民達が大噴火の犠牲になってしまったことから「科学的な判断を鵜呑みにせず、自分の勘や判断で以上だと思ったら、事前に準備して災害後に路頭に迷うようなことのないようにせよ」という教訓を残しています。その記載から「科学不審の碑」とも呼ばれているそうですが、誰かの言うことに振り回されるのではなく、起きている事象から自分で判断して行動するというのは、災害対策として現在でも非常に大切な教訓なのではないかと思っています。
 災害の碑は、国土地理院の地図でも「自然災害顕彰碑」として地図上に表示されるようになりました
 もしもお近くに何かの碑があるなら、その碑がなんのために作られたのかについて調べてみるのも面白いのではないでしょうか。もしそれが災害の碑であったとしたら、その碑が何を伝えるために建てられたのかについて確認してみると、昔の人の思いが伝わってくるかもしれませんね。

※1 碑文の出展元は「桜島爆発の日 大正3年の記憶(野添武著/南日本新聞開発センター)」から抜粋しました。

過去の歴史を紐解いてみる

 災害が発生するたびに「想定外」という言葉が飛び交っていますが、それは本当でしょうか?
 例えば、水害が起きている地域の歴史を紐解いていくと、結構な頻度で大規模に水害が発生していることがわかるはずです。
 ハザードマップを作るときに「1000年に一度の降水量」で計算していると書かれていたりしますが、この数値はあくまでも統計数値のある百年程度の降水量から計算で「これくらいなら1000年に一度は起きそう」といってはじき出されているものに過ぎません。
 過去の歴史資料にあたっていくと、「1000年に一度」の規模の水害が200年に一度起きてたりすることがざらにあります。
 これは計算方法が間違っているというよりも、計算できない不確定要素が多すぎるということなのですが、過去の記録が驚くくらい残っているのに、その記録が防災関係ではあまり活用されていないのが実態ではないかと思うことがあります。
 過去ばかり見ているわけにもいきませんが、少なくとも歴史を調べることで、過去にどれくらいの水害が起きたのかということはわかりますから、その記録を元にして防災計画を立てることが必要なのではないかと思います。
 確かに河川改修や護岸整備で昭和、大正、明治、江戸以前に起きていた水害は起きなくなっているかもしれませんが、どこが切れてどこが浸かったかというような情報は現在でも活用できます。
 こんなことを書くのは、今日伺った山口県萩市須佐町にある萩市立須佐歴史民俗資料館「みこと館」というところに展示されていた墨書された床板を見たからです。
 この地域は2013年7月23日に水害で大規模に水没しました。そこで再発見されたのが、地元の方から寄贈された一枚の床板でした。この床板に文字が書かれていたために寄贈されたのですが、水害が起きた後、これが過去の水害の記録だったということがわかったそうです。
 記録には「文政四年巳七月二十日朝洪水(以下略)」と書かれており、文政4年、1821年にもこの規模の水害が起きた旨の記事が書かれていました。写真撮影不可でしたので、現物はぜひお出かけいただいて見ていただければと思うのですが、千年どころか、二百年前にも同じような水害があったことが被災者本人によって床板に記され、他にもこの文政4年の大水害で被災した場所を示す地図なども見つかっており、そういったものを参考にしていたなら、被害の起き方は変わったかもしれないなと感じました。
 歴史というのは案外と馬鹿にしたものではありません。過去の災害を見直すことで、これから起きるであろう災害とその規模もある程度は予測できると思っています。災害関係の対策を行うときには、コンピュータによるシミュレーションはもちろんですが、過去の文献や口伝による被害もきちんと加味して計画を行うべきではないかと考えています。

災害遺構を訪ねて8・大浜の海難者慰霊塔

海難者慰霊塔。手前にはお線香のおける台が用意されている。

 国道9号線を益田市内から浜田方面に進むと、大浜漁港入り口の数百メートル手前に「海難者慰霊塔」があります。この場所は碑を集めているのか、他に交通安全らしきお地蔵様と井戸平左衛門を顕彰する碑が同じ場所に建立されています。

見にくいが井戸正朋君公徳碑と書かれている碑。
奥に見えるのが海難者慰霊塔。

 さて、この手の塔には大抵の場合、その由来や謂われが書かれているものですが、この「海難者慰霊塔」にはそういう記載は一切なしで、これが何のために建立されたのかがわかりません。
地元の市史や町史も調べてみたのですが、やっぱり謂われは不明でした。
一つヒントになるものがあるとすれば、これに刻まれた「島根県知事福邑正樹書」という文字。

陰になっていて読みづらいが、「島根県知事 福村正樹書」と書かれている。

 この福邑正樹知事の在任期間は1932年から1936年なので、その間に何か起きたのかなという推測はできます。
 大浜漁港を真下に望むことと、この海難者慰霊塔の基礎側面には何かを入れられるような箱状の引き手のついた石が収められていたことから、この期間に何か漁船の大規模な事故があったのだろうかと調べてみましたが、この期間にこの付近での大きな事故や事件は特に見当たりませんでした。

見にくいが右下台座部分が引き出せる構造になっている。
海難事故の無縁仏の供養塔だろうか?

 では、全国的にはどうだったのかをwikipediaで見てみると、大規模な海難事故は1935年の船緑丸沈没くらいでした。福邑知事は大分県国東の出身らしいのと、慰霊塔の正面が南西、つまり大分の方を向いているので、これかなという気もするのですが、ここに碑を建てる意味がよくわかりません。
 日本海で起きた事故としては、福邑知事着任の少し前、1927年に美保関事件が起きています。
 島根県美保関沖で演習を行っていた日本海軍の艦艇が衝突して沈没や損傷し、多くの将兵が亡くなったもので、福邑知事の在任期間に起きた大きな事件・事故としてはこの二つが挙げられると思います。
 また、遡れば日露戦争で撃沈されたロシア艦艇の乗組員が漂着した場所でもありますので、それもあるのかもしれません。
 「海難者慰霊塔」が具体的にどの海難事件・事故を差して建立されたのかはわかりませんが、日本海で起きた全ての海難者の慰霊のための塔と考えれば、何の記載もされていなくても不思議ではありませんが、福邑知事とはあまり縁のなさそうなこの大浜の地にこの慰霊塔があるのはなぜなのか、ちょっと気になります。

災害遺構というものとはちょっと異なるかもしれませんが、海難事故も大きくくくれば災害の一つと言うことでご容赦いただければと思います。

災害遺構を訪ねて7・「平成25年山口・島根豪雨災害祈念碑」

 平成25年7月28日、一日の降水量が381ミリ(津和野町森村)という集中豪雨により、島根県津和野町から山口県にかけて大規模な災害が起きました。
 松江地方気象台の気象情報では、わずか半日で降り始めからの雨量が352ミリという量が降り注いだようです。

災害後に現地で撮影した写真。
土砂で道路が1m以上埋まっている。向こう側に見えるのは線路の残骸。

 そのため、津和野川はあちこちで決壊し、山口線も線路が地面ごとなくなるような大変な被害が起き、島根県内では高津川に転落して死者1名を記録しています。
近くだったこともあって何度もボランティアとして出かけていきましたが、別世界だったことをいまでも良く覚えています。
 この災害復旧が平成29年11月に完了したのを記念して作られたのが、今回ご紹介する祈念碑と小さな公園です。


 祈念碑は非常にシンプルで、表には「災害祈念碑」、裏には「平成29年11月」とだけ記されています。

駐車場脇にある小さな公園。川向こうにはJR山口線があり、SLの走る時期にはその勇姿を見ることができる。

 公園は災害対応公園のようで、小さな東屋には水道、電気、そしてベンチが備えられています。
 川の横に作られていることから、水害では無く地震に対する備えなのかなという感じです。
 この災害では地元の人が声を掛け合って避難した結果、この地域では大きな人的被害は出ませんでしたので、普段からの顔の見えるつきあいが大切なのだなと地元の人と話したことを思い出しました。

災害遺構を訪ねて6・津田川ダム記念碑

津田川ダムの全景。
灌漑用では無く、治水を行うためのダム。農業用で灌漑能力が無いダムは珍しい気がする。

 益田市津田町に河口がある津田川をさかのぼっていくと、谷が深くなって唐突にダムが姿を現します。
 これが津田川ダムで、人家ではなく農地を守るために作られた防災ダムです。

記念碑の全景
右手の白い構造物がダムの監視装置。手前の碑が今回紹介する記念碑で、周囲は草刈りをされている。

 ダムよりも少し上流にダムの監視装置があり、その横に、今回ご紹介する津田川ダム記念碑があります。
 このダムがなぜ農地を守る防災ダムだとわかるのかというと、この記念碑の背面に事細かに経緯が記されているからです。
 これによると、津田川はかつて豪雨のたびに水害を起こして下流域の農地を浸水流出していたとのこと。

 昭和34年の災害を契機にダムを造ろうという運動が始まったものの、実際の動きが出てくるのは昭和40年7月の集中豪雨後だったようです。
 その後、昭和42年から現地測量が始まり、昭和49年に竣工したのだとか。
 このダムを造るに当たって奔走した渡辺亀市さんという方も顕彰されていて、経緯と顕彰碑を兼ねた記念碑になっています。
 見える範囲から覗くと、ダムの前後から急激に谷が深くなり、そして川も急になっているように見受けられます。
 このダムが完成してから、下流域一帯が水害に遭ったという話は聞かないので、防災ダムとしてきちんと仕事をしていることがわかります。
 あまり目立たないダムですが、近くに行くことがあったら見てみてはいかがでしょうか?

災害遺構を訪ねて5・昭和拾八年大水害関係の記録集

 最近でこそさまざまな人がさまざまな形で災害の記録を残すようになってきていますが、過去を調べていくと、ある期間資料が殆ど無いという時代にぶつかります。
 それがちょうど太平洋戦争のころで、昭和十七年から昭和二十一年くらいまでに起きた災害の詳しい資料というのは、軍事統制下にあったせいか殆どお目にかかることがありません。
 石西地方でも、この時代に大きな水害があったことは人伝えの話ではっきりしているのですが、それがどのようなものだったのかについては、調査をしていてもはっきりしていないなと感じています。
 聞き取りをしようと年配の方に話を聞いても、ある人は昭和十六年、また違う人は昭和十七年、さらに別な人は昭和十八年と謂われ、その全てで水害が起きたのか、はたまた全て記憶のあやだったのか、正直なところわかりません。
 で、困っていたところ、高津小学校の校長室の前にある展示コーナーでびっくりするものを見つけることができました。
 それが今回ご紹介する「昭和拾八年大水害関係」と書かれた一冊の冊子です。

 何気なく飾られていた過去の書籍や書類の中にあったこの冊子。個人情報がてんこ盛りで、関係者の方がおられるかもしれないため、冊子の中は撮影していません。

 校長先生以下の許可をいただいて中身を斜め読みさせていただいたのですが、小学校の生徒の被害状況に始まり、地域の被災状況や支援要請その他、高津小学校の管轄区域でどのようなことが起きたのかについて、早い段階のものがまとまっていました。
 この当時、郡役所ではなく小学校が行政機能を持っていたという話は聞いていましたが、この冊子を見るとそのことがはっきりとわかります。
 もしかしたら、他の小学校にもこのような資料が眠っているのかもしれませんが、過去の災害を知るという点で一級品の資料だと思います。
 災害遺構というのとはちょっと違うかもしれませんが、当時の記録という点では同じものだと考え、今回ここに許可を得て掲載をさせていただきます。
 なお、今回の資料は「事前連絡の上、学校の対応が可能であれば見せることも可能かも?」とのお話でしたので、興味のある方はぜひ連絡してみてください。
 当研究所でも、折を見て内容を解析していきたいと考えています。
 最後に、今回の掲載についてこころよく許可をくださいました校長の大橋先生、教頭の中尾先生、主任の大畑先生にこころからお礼申し上げます。

災害遺構を訪ねて4・蕪坂峠の千人塚

 石西地域は比較的水の被害が多いようで、記録を調べていくと「大水害」という言葉がよく出てきます。
 今回は津和野町の蕪坂峠にある千人塚をご紹介します。

橋を渡って手前が千人塚の供養塔。その横の建物が地蔵堂で、奥の幟が見えるところに追福碑がある。

 津和野町役場の作成している観光スポットには「蕪坂千人塚・殉教者追福碑」として掲載されていますが、場所が隣接しているためにこのような表示となっているようです。
 蕪坂千人塚は津和野町史によると天保十三年、千人塚の下にある永明寺の北洲和尚が天保七年の大水害及び飢饉により亡くなった方を弔うために行った追福供養を記念して建てられたものだそうです。

供養塔。かなり苔むしてはいるが、裏面の文字もそれなりに読み取れる。

 この水害と飢饉はよほどひどかったと見えて、その後もたびたび供養がなされていたという記録が残っています。
 これから後、この地方は立て続けに大雪や地震などに襲われることになるのですが、そちらの方はしっかりとした記録が残っておらず状況がはっきりしません。
 ともあれ、石西地方で災害遺構としては珍しい明治期以前の遺構。
 機会があったら一度訪れてみてください。
 なお、現地はかなり急な上に道路は狭く落ち葉が一面に積もって滑りますので、行かれるときには足下に気をつけてお出かけください。

災害遺構を訪ねて3・萬福寺の仏像と髑髏

 今回も万寿の大津波の災害遺構です。
 場所は雪舟庭園で有名な萬福寺さん。

駐車場はあるが、なぜか満車になっていることが多い。道が狭いので注意。

 お寺の由来によると、その前身は中須の浦にあった安福寺というお寺だったそうです。
 西暦1026年の万寿3年5月に石見地方を襲ったとされる大津波でこの安福寺は破壊され、現在の萬福寺の位置に漂着した仏像を収める小庵が作られ、その後萬福寺となったとされています。

罹災した仏像の一部。何らかの原因で腐食が進んでいる。

 現在お寺ではこれら被災した天部形立像が数体展示されていますが、腐食により「像だったことがわかるもの」となっています。
 他にもさまざまな立派な仏像が展示されている中でこれがひときわ目立つのが不思議です。
 そしてもう一つ。この万寿の大津波で亡くなった髑髏が2つ、箱に収められて展示されています。
来歴が書かれた版のみ掲示しますが「自分たちのこの姿を見せて末代までこの災いを語り継いでほしい。その功徳によって自分たちは成仏できる」というようなことを当時の和尚様に伝え、それ以来展示されているそうです。

これは髑髏の下に出されている略縁記。この看板の上に箱入りの髑髏が収められている。

 昭和51年には慶応大学の考古学の教授によりこの髑髏の調査が行われ、片方が25歳くらいの女性、もう一つが7~8歳の子どもという結果も出ているようです。
 萬福寺は他にも明治維新の火ぶたが切られた「石州口の戦い」で使われた鉄砲の弾痕が残っていたり、静かな美しさの雪舟庭園も見所の1つです。

歴史が古いため、いろいろと見応えのある展示がある。写真は弾痕と雪舟庭園。

 拝観料は大人500円。人気のないこともありますが、玄関脇の呼び鈴を押すと人が出てきて手続きをしてくれ、御朱印をもらうことも可能です。
 手近な観光として萬福寺さんをお参りしてみるのもよいかもしれません。