災害遺構を訪ねて2・「松崎の碑」

 石見地方の災害史を紐解いていくと、沿岸部では結構な高確率で「万寿の大津波」というキーワードにぶつかります。
 西暦1026年の万寿3年に石見地方を襲ったとされる大津波で、各地にさまざまな伝承や逸話が残っています。今から千年近く前の大災害が未だに語り継がれているわけで、それだけ大被害を与えた津波だということなのですが、逆に言えば、それ以降大きな津波災害が起きていないとも言えます。
 さて、今回はそんな万寿の大津波で海に没した鴨島にあった神社からご神体が漂着した現場に建てられたという碑をご紹介します。
 とはいえ、この碑は災害直後に建てられたわけでは無く、ずっとずっと後になって「ここへご神体が漂着した」ということを記録に残したいという人によって建立されたものです。大津波の発生は万寿3年(西暦1026年)。碑の建立は文化8年(西暦1811年)ですから、およそ800年後に建立された碑というわけです。

益田側から来ると左手にこんな看板が見える。でも駐車場はこの看板の手前。
行き過ぎないように注意が必要。

  場所は、益田市高津町。平成15年に松枯れした「連理松」のあった場所です。現在は「金刀比羅神社+恵比寿神社」の社の横に、連理松の看板とともに「松崎の碑」として鎮座しています。

左が「金刀比羅神社+恵比寿神社」の拝殿。合祀されたものなのかどうかよくわからないが、手前にある鳥居の表示もこの2つが併記されている。ちょっと珍しい気がする。

  由来を簡単に書くと、「遙か昔、歌聖として知られる柿本人麻呂の終焉の地とされる益田沖にあった鴨島に、人麻呂自身が掘ったとされる像を安置した祠があった。
 万寿3年(西暦1026年)の大津波によって鴨島は一夜にして海中に没したが、像は二本の松に支えられて高津の吹上浜に漂着した。このことから、この地が松佐起、つまり松崎と呼ばれるようになった。地元の人がその場所に小さな祠を建ててお祭りしていたが、紆余曲折を経て、延宝9年(西暦1681年)に高津城二の丸跡である現在の場所へ移転改築された。その後、文化8年(西暦1811年)に藤原持豊卿によって上記の伝承を末永く伝えるため、由緒碑を建立した」そうです。

由緒碑はわりと大きなもので、表面には文字がびっしりと書かれています。

碑の手前、入り口のところにある看板の拡大図。この碑の由来が丁寧に書かれているので、一読するとよく分かる。碑に刻まれている文字も全文が書かれているので、こちらを参考にする方が読みやすい。

 碑の手前に由来や書かれている文字についての説明書きがありますから、そちらを読めば大丈夫です。
 また、在りし日の連理松についても碑の横にある「高津連理の松」の案内文で偲ぶことが可能です。
 海からは割と近く、海抜11m程度なので、話としてはそれなりに信憑性はあるのかなと思いますが、実態については正直なところよくわかりません。
 この碑を建立した理由が「伝承を忘れないため」ということなのですが、確かにこの碑が無ければ誰も知らない話になっていたかもしれないので、建立した人は「人は忘れるものだ」ということをよく知っていた方なのでしょう。
 ちなみに、神社の横はちょっとした駐車場になっていて、「松崎の碑」の見学で利用することができます。
 この駐車場のさらに横は児童館になっていて、平日の夕方は学童保育で賑やかですので、行かれる方はご注意くださいね。

20190929追記 他の災害遺構の見出しが「災害遺構を訪ねて」になっていたため、タイトルを「災害遺構を探して」から変更しました。

古の災害を知る研究

 日本では昔からさまざまなものが記録として残されていますが、自然災害についても直接被災した人や話を聞いた人が文献として記録を残しています。
 特に地震に関してはその周期の長さから、過去の文献を読み取っていつ頃どのような規模のものが起きていたのかを確認していくことで、現在の地震学とあわせてより精度の高い地震の予測ができるのではないかと考えられています。
 京都大学や東京大学が中心となって「古地震学」を研究しているそうですが、webを使って様々な人が共同で文献を読み解いていくプロジェクト「みんなで翻刻」が京都大学古地震研究会主催で実施され、災害に関する古文書が日々読み解かれているとのこと。
先日、東京大学地震研究所の古文書の一部の解読が完了したという記事も見つけました。
過去が紐解かれていくことで、今まで分からなかった、または知られなかった地震や災害のことがこれからわかってくるかもしれません。
翻訳支援ソフトも使えるようですので、興味のある方は是非一度「みんなで翻刻」プロジェクトのサイトを覗いてみてください。

 なお、「みんなで翻刻」に参加するには、FacebookやTwitterのアカウントが必要なのと、現時点ではパソコンからしか見られないそうですので、あらかじめお知らせしてきます。

 また、東京大学地震研究所図書室のホームページ内「著名地震別「地震資料」」「浜田地震」に関する資料を見つけましたので、併せてリンクを貼っておきます。興味のある方はこちらもご覧ください。

災害遺構を訪ねて1・「58災害防災祈念碑」

 先日、震災伝承碑の地図上の記号が新設されたという記事を書いたわけですが、そこでちょっと考えたのは、果たしてこの石西地方にどれくらいの震災伝承碑があるのだろうかということです。

 そこで、どれくらいの数、どれくらいの災害があるのかはわかりませんが「災害を示す遺構」を探してみようと考えました。
 今回は、益田市本町にある市立益田小学校敷地内にある防災祈念碑です。

 この祈念碑は昭和58年7月20日から23日にかけて起きた島根県西部水害のうち、益田川の氾濫により発生した水害のものです。
 碑が置かれている益田小学校も水没し、その時の最高水位が石碑の横の物差しのような石に刻まれています。

 この碑は益田青年会議所が義援金により建立したという記事が書かれています。
 碑の手前には、旧益田市の地図と市内の被害状況が刻まれた石が置かれています。

被災したせいなのか、台座がかなり痛んでいる二宮尊徳像。説明文の石はその台座に後から貼り付けられた様子。

 この碑の横、益田川に向かって二宮尊徳像があるのですが、これも被災したらしく、台座にはそれを刻んだ石が置かれています。
 ちなみに、碑の右側には徳川夢声さんの碑もあったりしますが、今回は割愛します。
 この水害をきっかけにして、普段湛水しない水害対策に特化した益田川ダムが建造されました。
 場所は益田公民館の向かい、益田小学校の体育館の横です。通りに沿って置かれているので、また近くに行かれたときには思い出してください。

昭和58年島根県西部水害が分からない方のためにリンクを用意してきます。
興味がある方はこちらもご覧ください。

wikipedia「昭和58年7月豪雨」

昭和58年災害 – 島根県砂防課

「1983年7月梅雨前線による島根豪雨 災害現地調査報告 」、防災科学技術研究所)

活断層を見てみよう・弥栄断層

 先日、日原の人と話をしていたときに、国道9号線の下に活断層があると聞いて調べてみたら、弥栄断層のことでした。
 この弥栄断層は浜田市弥栄町から津和野町青原にかけて伸びる活断層で、この断層の上を国道9号線と山口線が一部区間走っています。
 場所は津和野町にある青野山の麓から津和野町日原の国道187線分岐まで。

青野山から日原方面を望む。眼下の山に挟まれたところが断層部分

 その先は日原の町を通って奥にある須川谷という集落から国道488号を交差し、日晩山の麓を抜けて美都町都茂の集落を抜け、国道191号を一部跨いで弥栄町にたどり着きます。

大神楽から益田市美都町都茂方面を望む。見づらいが、山の間に見えるのが国道191号。益田市美都町宇津川の手前まで断層の上を通っている。

 google-earthで確認していただくとよくわかりますが、青野山の益田側から浜田市弥栄まで不自然にまっすぐ伸びている場所がありますが、これは活断層が動いたことによりできた直線です。
 こういう直線の地形は工事の効率がよかったため、この活断層に沿って道路や線路が作られることがよくありました。
 有名な場所では、中国縦貫道が走っている山崎断層がありますが、ここも同じように断層が作った地形を利用して道路と線路が作られています。
 この断層が動いた場合、断層直上は震度6強の揺れが起こるというシミュレーション結果が出ていますが、地震自体は直下型のため、震度以上の被害が出ることが予想されます。
 ここが断層で右横ずれしたいうことはわかっているのですが、いつ動いたものかについてははっきりと分かっていません。
 もし通ることがあったら、かつてここで大きな地震があったのだろうなと思いながら見てみてください。
 なお、弥栄断層については青野山を挟んで反対側に地福断層というのも存在します。
詳しくは以下のサイトをご確認ください。

http://gbank.gsj.jp(活断層データベース)
https://www.jishin.go.jp/yasaka_jifuku