【災害遺構を訪ねて】「日原の汗かき地蔵尊」

日原には地元で大切にされているお地蔵様があります。
町が設置したと思われる観光標識にも「汗かき地蔵」と記載されているこのお地蔵様は、立派な地蔵堂に納められています。

 表にある看板によると、元々はここにあった宝泉寺というお寺の入り口にあった、紀伊の国からきたお地蔵様なのだそうですが、宝泉寺の移転の際に何人がかりでも決して動くことがなかったため、現在の地に祭られているのだそうです。
 伝承では、このお地蔵様のいる村に何か変わったことがあるときには首から上の部分に玉のような汗をかいて教えてくれるそうです。
 最近では昭和9年1月20日の大寒の日に汗をかかれたとのことで、悪い風邪が流行るから気をつけるようにというお知らせだったそうです。
 その時におられた方が、お地蔵様が汗をかいたのを見るのは3度目だという話があったそうで、流行病やひょっとしたら天変地異でも汗をかかれていたのかもしれません。
 現在新型コロナウイルス感染症の変異型で都会地が大騒ぎしていますが、お参りしてお地蔵様を見る限りでは特に汗はかかれていなかったので、この地域では大丈夫なのかなと感じました。

 ただ、状況は変わっていくと思いますので、実際にお地蔵様が今どんな状態なのかは、一度出かけて自分の目でご確認いただければと思います。

 入り口にはお地蔵様の御真言が書かれていたりするので、お参りの際にはこの御真言を唱えるといいそうです。
 コロナ禍で遠くにお出かけできない状況が続いていますが、こういった地域の知る人ぞ知る場所を巡ってみるのも面白いかもしれませんね。

災害遺構を訪ねて15「中山八幡宮の復旧記念碑」

 昭和58年7月の大雨による水害は、島根県西部のあちこちに大規模な被害を与えました。
 災害からの復旧には大変な金額と労力がかかったわけですが、他の災害に比べるとあちこちに立派な復旧記念碑が存在しているのはこの災害の特徴のような気がします。
 今回ご紹介するのは、そんな記念碑の一つである益田市赤雁町の中山八幡宮境内に置かれた復旧記念碑です。


 広い境内は地域を見下ろすような高台にあって、この神社が昔から水害時の避難所として使われていたのだろうなと推察できるような場所です。
 傍らにはこの八幡宮の由来が掲示されていて、復旧記念碑はその横に置かれており、碑の裏には「建碑の主旨」としてこんなことが書かれています。
「昭和58年7月23日豪雨による古今未曾有の大水害も益田市及び国県の温かい援助により河川耕地共に全面的復旧工事が施工され再び災禍なきを祈念 ここに謝恩をこめて記念碑を建立する」

 それから工事概要や施工業者、市長やこの地域の災害復旧に尽力したと思われる方の名前が刻まれています。
 特に教訓や鎮魂、何が起きたのかを後世に伝える目的で建立されているわけではないようですが、地域が復旧するたびにこのような記念碑を作ることができた当時の勢いはすごいなと思います。

災害遺構を訪ねて14・石碑「益田川災害復旧竣工記念碑」

「益田川災害復旧竣工記念碑」と書かれており、益田川災害復旧工事が完了したことを記念して建てられたもの。

 災害に関する碑には大きく分けると3つのタイプがあると思っています。
 1つ目は死者や行方不明者に対する慰霊碑。2つ目が後世に教訓を伝える碑、3つ目が復旧に関わった人達を称える碑です。
 個人的な感想としては、碑の大きさ、立派さは3、1、2の順番になっているような気がしますが、今回ご紹介するのは3のタイプの碑です。
 昭和58年の水害で氾濫した益田川の河川復旧工事が完了したことを記念して建てられた碑ですが、碑のお隣には河川改修が終わったことを称える文字と、それに関わった期成同盟会の人の名前が彫られた石が置いてあります。

益田川改良復旧期成同盟会のお歴々のお名前が記された石版。災害復旧は普通に行われると思うが、このお歴々の活躍で無事に終わったと言うことなのだろうと考える。

 確かにこの河川復旧工事と益田川ダムの完成もあって、益田川は越水していないのですが、わざわざ工事を施工したわけでもない人達の名前を刻む理由がよくわかりません。
 行政機関が復旧工事をすると必ずこの手の碑が設置されるのですが、どうせお金をかけるのであればもう少し何かの役に経つ碑が作れないのかなと思ったりします。
 この竣工記念碑は、「災害遺構を訪ねて1」で紹介した「58災害防災祈念碑」の川向こう、益田川を挟んで反対側に置かれており、道路脇にありますのですぐわかると思います。

災害遺構を訪ねて13 石碑「昭和18年大水害死者菩提碑」

 益田市七尾町にある妙義寺は由緒あるお寺です。
 こちらのお寺の道路を挟んで反対側の敷地の一角に、「昭和18年大水害死者菩提碑」がひっそりとお祭りされています。


 菩提碑、といういい方はあまり馴染みがないのですが、菩提という言葉を調べてみると「死後の冥福」という意味があるそうなので、「昭和18年水害の死後の冥福を祈る碑」といった意味になると思われます。
 昭和18年水害は、戦時中と言うこともあってかあまり情報が見当たらないのですが、こういった碑があることを考えると、益田市一帯でそれなりの死者が出たのかなと考えられます。
 碑そのものには細かいことは書かれていなかったのでよくわかりませんでしたが、敷地はきれいに管理されていました。
敷地の形から考えると、元々は妙義寺の境内地なのかもしれません。
敷地内には益田兼堯像や行者が寄進したと思われるお地蔵様、喜捨により作られたと思われる天保年間の刻みのある石橋などがあり、ちょっとした公園のようにも感じました。
柵などはないので出入りは自由にできますが、住宅地の中ですので行かれる際にはお静かにお願いします。

ハザードマップの検証をしていますか

DIGの風景
地域の強み弱みを知って考えよう

 各自治体ではハザードマップを作成して自治体内の世帯に配布していますが、あなたは見たことがありますか。
 ハザードマップは特定の条件下での被災状況を図化したもので、自治体や地域の避難計画作成の基礎となる資料の一つです。
 これには地震や浸水害、土砂崩れの危険性が色分けで表示されていて、とりあえずの危険な場所がわかるようになっており、あなたが避難計画を作るときには必ずこれを見ているはずです。
 ハザードマップの検証では、自宅からの避難だけでは不十分です。勤務先や通学先、途中の経路、よく買い物や遊びに行くところ、そして自分が避難すべき避難所の災害対応状況といったものも確認しておかなければいけません。
 避難所は災害から身を守るために避難するところなので、避難すべき避難所がどのような災害に対応しているのかを正確に把握しておかなければ、避難した避難所で被災したと言うことになりまねません。
 想定される災害のハザードマップに、地域の災害伝承の情報を追加すると、より安全な避難を行うことができるようになりますので、分かる範囲で確認して追加しておきましょう。
 避難経路は状況や環境の変化によって常に見直しが必要ですし、地域としての防災マップ作りも必要となるでしょう。
 今住んでいる場所だけでなく、自分が行きそうな場所の経路と安全性を確認しておいて、いざというときに備えたいですね。

災害遺構を訪ねて12・石碑「未曾有の豪雨哀と潤を産む」

 益田市、津和野町、吉賀町から構成されている石西地方の災害遺構を探していると、大きく分けて「水害」と「飢饉」の碑がよく建てられています。
 この碑も水害の碑で、益田市美都町と浜田市三隅町の市境の民家の庭に、道路に向かって建っているものです。
 昭和の水害ということで、昭和18年9月20日、昭和47年7月13日、昭和58年7月23日、昭和63年7月20日の4つの水害のあった日が刻まれています。
 実は、碑には平成元年10月建とあるのですが、この碑の来歴がよくわかりません。

 裏側を見ても、ただコンクリートが浸食されているのがわかるような部分しか無く、由来を書いたようなものはありませんでした。
 調べた限りでは、この碑がここにあることが書かれたものはあったのですが、これが建立された理由や経緯に触れたものはありませんでした。


 あまりに奥地に唐突にある碑なので見たらびっくりするかもしれません。
 碑を構成している外側のコンクリートの浸食が進んでいるのがちょっと気になりますが、この碑は風雨に耐えて現在も過去の水害の起きた日を伝えています。

災害遺構を訪ねて11「大神楽の農魂之碑」

益田市美都町の大神楽地区にある「農魂之碑」。

 益田市美都町都茂の大神楽地区。急な傾斜に棚田が作られており、益田の観光名所の一つとして紹介されているようなきれいな場所ですが、その袂に「農魂之碑」と書かれた碑が置かれています。
 農地開拓地か、ほ場整備完了の地にはよく置かれるタイプの碑なのですが、調べてみるとこれは災害がきっかけとなってできた碑でした。
 昭和47年の大雨で、この大神楽地区の棚田は地すべりを起こし、耕作が危ぶまれる状態になったそうです。
 その後、地すべり対策とほ場整備を同時に行うことで、大神楽の棚田は立派によみがえり、その地すべり対策事業とほ場整備事業が終わったことを祝して建てられたのがこの「農魂之碑」だそうです。
 完成した頃の写真ではこの農魂碑の向こう側に整備された棚田が見えていたのですが、現在は竹林が生い茂って見えなくなっています。

上から棚田を見下ろす。全景がはっきりと見られる場所が少ないのが難点。

 ただ、大がかりな農地整備をしてまでここを農地として再生させたかった当時の人達の思いを、この碑を見ていると感じます。

災害遺構を訪ねて10「昭和58年水害関係の碑他」

 昭和58年7月水害は益田川流域のあちこちに大きな被害を及ぼし、内陸部にある益田市美都町仙道でも、水に浸かった地域がありました。
 国道191号を益田から広島方面に向けて進んでいくと、仙道の市街地がありますが、その入り口付近には昭和58年水害の最高水位の表示があります。


 昭和58年当時は川幅が狭かったため、越水して街が浸かったようです。
 その後、3年をかけて河川改修工事が行われ、その完成を祝って作られた復興記念碑が、国道191号と益田川に挟まれた場所に作られています。

 裏面に刻まれた建碑史略には、昭和58年水害の概略と、復興への感謝が綴られていました。
 そして、この碑から少し進むと、国道191号と山との間に小さな社が現れます。
 社の後ろに倒れていた「むらおこし社縁起」という立て看板によると、元々は金比羅様を祭っていたものだそうです。

水神様を祭りしている「むらおこし社」。左手には子宝亀石という亀のような石がある。
社に掲げられている看板。これで「むらおこしさん」と読むそうです。

 昭和58年水害後の河川改修で祭られていた金比羅様は勧進元に返却され、社も解体になりそうだったところを地元の有志が引き取り、新たに水神様をお祭りし手再び水の災いが起きないようにお祭りしているのだそうです。
 そのおかげかどうかはわかりませんが、昭和58年水害以後、仙道地区が水に浸かったという話は出ていません。
 ところで、水神様をお祭りしているはずの神社の表示はなぜか「むらおこし社」。
 これで「むらおこしさん」と読むそうですが、水がわき出るようにいろいろな意欲が沸いて新しい地域作りの基となることを期待してこのような名前になったそうです。
 余談ですが、すぐ脇に「子宝亀石」と書かれた亀のような石が一緒にお祭りされていて、なんとなくほっこりとさせられました。

災害遺構を訪ねて9「昭和58年7月水害の氾濫水位の表示」

 益田市で大規模な水害自体は昭和58年以降起きていません。
 水害のあと、益田川堤防の強化や排水の整備、益田川ダムが建設されたことなどがその理由として挙げられると思いますが、以前は20年から30年に一度は大きな水害に見舞われていた地域でした。
 今回の災害遺構は平成15年に設置された昭和58年水害の最大水位の位置表示です。人の記憶というのは風化するようにできていますので、過去にどのような災害が起きてどうなったのかについては世代が変わってしまうときちんと伝え切れていることはまれです。そのため、碑や記録を残して後世に伝えていこうとするわけですが、それだけではなかなかイメージすることが難しいことも確かです。

 この表示は、昭和58年に実際に使った水位の位置を浸かったおうちにそのまま表示してあります。そのため、実際に垂直避難しても大丈夫なのかどうなのかが一目で分かるようになっています。
 以前は益田市役所にも表示されていたのですが、耐震補強工事の時に外されてそのままになっています。代が変わって建物も建て変わるうちにこれらの表示もだんだんと消えていっていますが、七尾町や本町といったエリアには、探すとまだいくつかの表示が残っています。
 実際にそれらの表示を探して確認しながら、いざというときにどのように避難すれば助かるのかを考えてみるのもよいのではないでしょうか。

災害関係の碑あれこれ

 災害が起きると、何らかの理由で碑が建てられることがあります。
 大きく分けると、教訓を示すための碑と、何らかの災害対策を行った者を顕彰するための碑、そして鎮魂のための碑です。
 石西地方では、私が知る限りは顕彰碑か鎮魂の碑なのですが、これはこの地方で起きるのは水害や大雨による災害が殆どであるため、教訓の碑を建てるよりも、実際に被害に遭わないために水に浸からない場所に居所を建て、水に浸かる部分は田として遊水池の機能を持たせて被害を最小限に食い止めるための行動をしているためではないかと考えています。碑は丈夫な石で作られているとはいえ、そのままでは時間の経過とともに記憶が風化して人々から消えていくものですから、教訓よりも行動で示しているのではないかなと思います。。もっとも、当地方でもいろいろと調べてみても由来がはっきりしない碑が多いので、、その中には過去の災害の教訓についての伝承のあるものがあるのかもしれません。
 教訓の碑としてよく知られている東北太平洋岸に点在する過去の津波被害の碑も、記憶の承継がされていた一部の地域を除くと、このたびの東日本大震災で「そんなものがあった」と注目を浴びるといった状態なので、意識しない限りは忘れ去れていくことは仕方がないのかなと思います。
 教訓を未来に向けて残していくためには、それをいかに日常生活の中に溶け込ませていくかが鍵になると思います。例えばインドネシアのある島では「歌」で津波の教訓を伝えていて、その歌が歌い継がれていた結果スマトラ大津波でも死者が少なかったという風に。
 そういえば、教訓の書かれた碑の中に、今でもそのように考えなければいけないのだろうなと思ったものがありました。

東桜島小学校にある桜島爆発記念碑。「科学不信の碑」とも呼ばれているらしい。
出展:桜島・錦江湾ジオパーク推進協議会ホームページ

 それは鹿児島県にある桜島で起きた、大正3年の大爆発のあと建てられた桜島爆発記念碑の一つなのですが、その中に「(前略)住民ハ理論ニ信頼セズ、異変ヲ認知スル時ハ、未然ニ避難ノ用意、尤モ肝要トシ、平素勤倹産ヲ治メ、何時変災ニ値モ路頭ニ迷ワザル覚悟ナカルベカラズ。(後略)(※1)」という一文があります。
 大正3年の桜島の大噴火では事前にたくさんの地震や井戸からの熱湯ふきだしなど、さまざまな異変が起きましたが、地元の測候所が「桜島は異常なし。噴火はしない」と言い続けていたため、それを信じた住民達が大噴火の犠牲になってしまったことから「科学的な判断を鵜呑みにせず、自分の勘や判断で以上だと思ったら、事前に準備して災害後に路頭に迷うようなことのないようにせよ」という教訓を残しています。その記載から「科学不審の碑」とも呼ばれているそうですが、誰かの言うことに振り回されるのではなく、起きている事象から自分で判断して行動するというのは、災害対策として現在でも非常に大切な教訓なのではないかと思っています。
 災害の碑は、国土地理院の地図でも「自然災害顕彰碑」として地図上に表示されるようになりました
 もしもお近くに何かの碑があるなら、その碑がなんのために作られたのかについて調べてみるのも面白いのではないでしょうか。もしそれが災害の碑であったとしたら、その碑が何を伝えるために建てられたのかについて確認してみると、昔の人の思いが伝わってくるかもしれませんね。

※1 碑文の出展元は「桜島爆発の日 大正3年の記憶(野添武著/南日本新聞開発センター)」から抜粋しました。