治水対策と堤防

 島根県出身の錦織良成監督が当石西地方を流れる高津川を舞台に映画を撮影され、先頃完成したようです。
 どのような映画なのか気になっているところなのですが、川を防災の視点で見るとやはり治水対策を切り離すわけにはいきません。
 総延長が長く、昔は水の水量も多く交通の要となっていた高津川は、治水対策は堤防を築くのではなく、遊水池を作ってしのいでいたのでは無いかと思わせる地形になっています。
 川の流域に広がる良田は、洪水などで水が溢れたときにその水を貯め込めるような位置に広がっており、古くからある住宅地からは少し離れた位置にあり、その位置関係を見たとき、昔の人たちは田で氾濫した水を受け止めることで、自身の命や財産を守ってきたのだろうなと思います。
 現在は川の両岸にはしっかりとした立派な堤防が建設されており、かつての遊水池にも家が建ちつつありますが、最近の豪雨を考えたら、堤防が川の水を支えきれるとは言えない状況になっています。もし川がはん濫したら、その住宅地は水の中に孤立してしまうことになりそうですが、新しくそこに家を建てて住む人たちは家が水没することを理解しているのかなと考えてしまいます。
 他の河川の流域で、人口が多く川がはん濫することが認められない地域では、昔からさまざまな堤防が試行錯誤しながら作られてきました。
 矢作川(やはぎがわ)の柳枝工(りゅうしこう)などはかなり有名ですが、川の勢いに逆らわず、柳の根の張り方を利用しながら、かつ柳の木が大水で流されないように堤防を維持し続けることは大変だったろうなと思います。
 そういった堤防を守ってきた文化がある地域と、遊水池を作ってはん濫を川にゆだねていた地域では、堤防に関する意識も違ってくるのでは無いかと思うのです。
 川がはん濫したときに浸かることが予想されている場所は、今なら防災ハザードマップを見ることですぐに分かります。
 その地域に家を建てるのならば、当然土地の嵩上げはしておかなければなりませんが、地域によっては、その嵩上げをすることが周囲に被害を与えると誤解している人たちもいるようです。水に浸水するのなら地区の人はみんな浸からないといけないというのはいかにも日本風ではありますが、復旧の拠点となる家が水に浸かってしまっては、自分の生活も地区の復旧もまったく目処が立たない状態になってしまうということだけは忘れないようにしておきたいものです。
 そして、長い期間堤防を守ってきたところでは堤防は切れるかもしれないものという意識がありますが、最近堤防を作ったところでは、堤防は切れないという意識でいるような気がするのです。
 どれだけ技術が進歩してさまざまな工法が開発されたとしても、100%守り切れるという保証はありませんしできないと思います。
 堤防を過信するのでは無く、水が氾濫したときに自分がいる場所はどうなるのかということをしっかり意識したいものですね。

水は昔の流れを覚えている

 ずいぶん昔のことになりますが、昭和58年7月に起きた島根県西部水害で氾濫した益田川の氾濫部分と、どんなものだったのかは忘れてしまったのですが昔の絵図面とを比較してみたことがあります。
 すると、川から氾濫した水は絵図面にあるような場所に沿って流れていることがわかりました。
 度重なる河川改修で流れが変わっていても、氾濫したときには昔流れていた場所を流れていくのだなと妙に感心したことを覚えています。
 もっともそういう場所は、以前は田しか作られておらず、万一河川が氾濫したときに遊水池として被害を防ぐような作りになっていました。
 益田川と高津川の二本の川に挟まれた益田平野は、そのため河口に田の多い土地となっています。
 ただ、今の益田平野を見ると、元は河川敷だった場所や遊水池にかなりの建物や道路ができており、もしも河川が氾濫したらこれらの地域は氾濫した水に浸かってかなりの被害がでそうな気がします。
 あなたがお住まいの地域は水に浸からないくらいの高さが確保されていますか?
 万が一の時には、きちんと避難先が決めてありますか?
 少なくとも昔の川や遊水池だった場所に住んでいる場合には、水による被害は考えておかないといけないことだと思います。
 水は昔の流れを覚えています。
 そのことを忘れないように備えをしておきましょう。

避難の時の逃げ道を検討する・水害編

ここ数年、高津川は上流域の大雨により危険水位まで上昇することが増えている。写真は2018年
7月に撮影したもの。

 当研究所を始めるに当たって、研究所の所在地である益田市高津町上市で水害が起きた場合、もしくは起きると想定した場合、どの時点でどこへ避難するかについて研究員達と検討したことがあります。
 先日、益田市のハザードマップが更新されたことに伴って情報が追加されましたので、この情報を元にどのように避難を考えたらいいのかをもう一度考えてみたいと思います。
 考えてみたら、災害時の避難というのはさまざまな判断が求められ、その上住んでいる場所によっても判断が変わるものです。
 以前に避難経路を考えてみる必要があることについては触れていましたが、今回は、地元の地区を例に挙げて、水害対策についてどのように検討したらいいのかについて考えてみます。

1.ハザードマップの限界

  いきなりなのですが、行政の製作するハザードマップには限界があります。
 今回は時期的に水害対策で検討をしたのですが、ここで予測されているのは「想定された氾濫時に最大でどこまで浸水するか」というものを示した図でしかありませんので、どのあたりから越水して堤防が切れ、どのように浸水するのかについては当然ですがわかりません。
 でも、避難をするに当たってはどこからどのように水が流れてくるのでどこへどんな風に避難すればいいかということが大切な検討材料になります。

2.水の特性を考える

 水は必ず高いところから低いところへと流れていきます。つまり、流れている川のカーブでは、カーブから見て上流側の堤防よりも下流側の堤防に力がかかります。
 そのため、同じような堤防であればより力のかかる側の堤防が決壊する可能性が高いと考えられるわけです。

国土地理院の地図を3m刻みで着色したもので、川は図の下から上に向けて流れている。川の合流点から変電所の脇を抜け、奥の田に向けて低地があるため、水害発生時にはここが最初の水の道になりそう。

3.地域の特性を考える

上市地区の少し上流部には川の合流点があり、ここで本流と支流がぶつかります。大雨が降って水量が増しているときには、支流の水は本流にはじかれてしまうので、合流点で水が滞留しやすくなります。バックウォーターと呼ばれるこの現象が起きると、逃げ場を失った水は堤防を越水して低地に向けて流れ込んでいきます。

 また、排水路が一カ所堤防の中腹に抜けていて、ここには逆流防止装置がついていないことから、排水路を越える水が流れてきた場合、ここから水が噴き出してきます。昭和47年7月の水害では、この付近から水が越水し、家屋流出の被害も出たことをお住まいの方からも伺っています。

4.水がどこを通って流れていくかを考える

 バックウォーターで越水すると、水の流れは人麻呂神社の駐車場から翔陽高校の実習田がある方へ流れていくことになりそうです。また、神社前から下流に向けても角度がついていますので、水は二手に分かれて流れていくことが予測できます。

最初の地図に水の流れる方向を落とし込んだもの。郵便局の周りが上市地区になるが、高手に避難しようとすると、どうやっても水の道を突破しなくてはならないことがわかる。

 また、蟠竜湖停車場線は翔陽高校方面に向けてゆるやかに下降しているので、ここも水の道になることが予測されます。また、排水路からの逆流水もここを流れていくことになりますので、殆ど川状態になりそうです。
 どちらにしても、この場合には側溝が溢れる内水面越水ではなく、川を流れる濁流ですので、一度氾濫すると流れてくる水の勢いは歩ける状態ではなさそうだということも予測できます。

5.避難する先はどこになるかを考える

 上市地区の近傍の避難所である「高津小学校」は水没地域のど真ん中、「高津公民館」は家屋倒壊等氾濫想定地域のど真ん中にあり避難所としては不適切です。おまけに上市地区と各避難所を結ぶ避難路がもろに水の通り道になってしまうのでどちらにしても避難することは現実的ではありません。

柿本神社は土石流警戒区域になっているため、荒天時の避難には注意が必要。ただ、柿本神社を抜けて万葉公園の管理センターに避難するのが一番無難そうではある。

 水に浸かる可能性のない「万葉公園」「翔陽高校」「希望の里」そして画像では切れていますが「高津中学校」が避難の選択肢となりますが、避難するのであれば越水する前という条件がついてきます。

6.結論

 上市地区はハザードマップ上の浸水域は2~3mとなっています。最悪の場合には、住家内で2階への垂直避難を行えば助かることはできそうです。
 ただ、より安全を考えるのであれば、国土交通省が出す高津川氾濫情報の氾濫危険水位到達時に避難を開始することが必要で、避難先との調整をしておく必要があるということになります。また、高齢者が非常に多い地域なので、親戚や知り合いが高手に住んでいるようなら、気象庁の「Lv.3発表」時点や、高津川氾濫情報のはん濫警戒水位に達した時点で域外に移動してしまうことも検討すべきでしょう。

 以上、簡単に地区の水害に対する分析を行ってみました。
 この分析結果をどのように使うのか、使わないのかはそれぞれの判断となりますが、これからの季節、お住まいの地域やおつとめの地域のハザードマップと国土地理院の地図を使って、もし水害が起きそうな状態になったら自分のいる場所ではどのようにしたら安全が確保されるのかについて検討してみてはいかがでしょうか。

災害遺構を訪ねて2・「松崎の碑」

 石見地方の災害史を紐解いていくと、沿岸部では結構な高確率で「万寿の大津波」というキーワードにぶつかります。
 西暦1026年の万寿3年に石見地方を襲ったとされる大津波で、各地にさまざまな伝承や逸話が残っています。今から千年近く前の大災害が未だに語り継がれているわけで、それだけ大被害を与えた津波だということなのですが、逆に言えば、それ以降大きな津波災害が起きていないとも言えます。
 さて、今回はそんな万寿の大津波で海に没した鴨島にあった神社からご神体が漂着した現場に建てられたという碑をご紹介します。
 とはいえ、この碑は災害直後に建てられたわけでは無く、ずっとずっと後になって「ここへご神体が漂着した」ということを記録に残したいという人によって建立されたものです。大津波の発生は万寿3年(西暦1026年)。碑の建立は文化8年(西暦1811年)ですから、およそ800年後に建立された碑というわけです。

益田側から来ると左手にこんな看板が見える。でも駐車場はこの看板の手前。
行き過ぎないように注意が必要。

  場所は、益田市高津町。平成15年に松枯れした「連理松」のあった場所です。現在は「金刀比羅神社+恵比寿神社」の社の横に、連理松の看板とともに「松崎の碑」として鎮座しています。

左が「金刀比羅神社+恵比寿神社」の拝殿。合祀されたものなのかどうかよくわからないが、手前にある鳥居の表示もこの2つが併記されている。ちょっと珍しい気がする。

  由来を簡単に書くと、「遙か昔、歌聖として知られる柿本人麻呂の終焉の地とされる益田沖にあった鴨島に、人麻呂自身が掘ったとされる像を安置した祠があった。
 万寿3年(西暦1026年)の大津波によって鴨島は一夜にして海中に没したが、像は二本の松に支えられて高津の吹上浜に漂着した。このことから、この地が松佐起、つまり松崎と呼ばれるようになった。地元の人がその場所に小さな祠を建ててお祭りしていたが、紆余曲折を経て、延宝9年(西暦1681年)に高津城二の丸跡である現在の場所へ移転改築された。その後、文化8年(西暦1811年)に藤原持豊卿によって上記の伝承を末永く伝えるため、由緒碑を建立した」そうです。

由緒碑はわりと大きなもので、表面には文字がびっしりと書かれています。

碑の手前、入り口のところにある看板の拡大図。この碑の由来が丁寧に書かれているので、一読するとよく分かる。碑に刻まれている文字も全文が書かれているので、こちらを参考にする方が読みやすい。

 碑の手前に由来や書かれている文字についての説明書きがありますから、そちらを読めば大丈夫です。
 また、在りし日の連理松についても碑の横にある「高津連理の松」の案内文で偲ぶことが可能です。
 海からは割と近く、海抜11m程度なので、話としてはそれなりに信憑性はあるのかなと思いますが、実態については正直なところよくわかりません。
 この碑を建立した理由が「伝承を忘れないため」ということなのですが、確かにこの碑が無ければ誰も知らない話になっていたかもしれないので、建立した人は「人は忘れるものだ」ということをよく知っていた方なのでしょう。
 ちなみに、神社の横はちょっとした駐車場になっていて、「松崎の碑」の見学で利用することができます。
 この駐車場のさらに横は児童館になっていて、平日の夕方は学童保育で賑やかですので、行かれる方はご注意くださいね。

20190929追記 他の災害遺構の見出しが「災害遺構を訪ねて」になっていたため、タイトルを「災害遺構を探して」から変更しました。

雨の日に散歩してみよう

 天気がめまぐるしく動く季節ですが、自分が住んだり仕事をしたりしている場所の周りの様子は知っていますか?
 晴れの日や曇りの日にはよくお散歩したりすると思いますが、濡れない、寒くない格好をした上で、雨の日にも散歩してみてください。
 晴れの日と雨の日では、見慣れた景色であっても随分と異なる感じがするものです。
 特に激しい雨が降ったときには、知っている場所なのかと思うような感じになることもあります。
 低地の水のたまり方や排水の流れ方を知っているだけでも、いざというときに役に立ちます。
 また、避難時に用意してある雨具を実際に使ってみることも大切です。
 防災士や他の人が勧めた製品だからといって、それがあなたにもあっているとは限らないからです。
 傘やカッパやポンチョ、長靴や運動靴やウォーターシューズなど、何度か使ってみることで自分の好みもわかるようになります。
また、散歩先を避難先にしておくと、雨の時にはどんな風に見えるのかイメージがしやすくなります。

 危険の無い範囲で天気の悪いときの周りの様子も確認しておいてくださいね。

災害遺構を訪ねて1・「58災害防災祈念碑」

 先日、震災伝承碑の地図上の記号が新設されたという記事を書いたわけですが、そこでちょっと考えたのは、果たしてこの石西地方にどれくらいの震災伝承碑があるのだろうかということです。

 そこで、どれくらいの数、どれくらいの災害があるのかはわかりませんが「災害を示す遺構」を探してみようと考えました。
 今回は、益田市本町にある市立益田小学校敷地内にある防災祈念碑です。

 この祈念碑は昭和58年7月20日から23日にかけて起きた島根県西部水害のうち、益田川の氾濫により発生した水害のものです。
 碑が置かれている益田小学校も水没し、その時の最高水位が石碑の横の物差しのような石に刻まれています。

 この碑は益田青年会議所が義援金により建立したという記事が書かれています。
 碑の手前には、旧益田市の地図と市内の被害状況が刻まれた石が置かれています。

被災したせいなのか、台座がかなり痛んでいる二宮尊徳像。説明文の石はその台座に後から貼り付けられた様子。

 この碑の横、益田川に向かって二宮尊徳像があるのですが、これも被災したらしく、台座にはそれを刻んだ石が置かれています。
 ちなみに、碑の右側には徳川夢声さんの碑もあったりしますが、今回は割愛します。
 この水害をきっかけにして、普段湛水しない水害対策に特化した益田川ダムが建造されました。
 場所は益田公民館の向かい、益田小学校の体育館の横です。通りに沿って置かれているので、また近くに行かれたときには思い出してください。

昭和58年島根県西部水害が分からない方のためにリンクを用意してきます。
興味がある方はこちらもご覧ください。

wikipedia「昭和58年7月豪雨」

昭和58年災害 – 島根県砂防課

「1983年7月梅雨前線による島根豪雨 災害現地調査報告 」、防災科学技術研究所)

地図で「自然災害伝承碑」がわかるようになります

 現在、国土地理院の地図ではさまざまな「碑」が以下の同じマークで表示されています。

国土地理院の地図で表示される「碑」のマーク

 このたび、その中の「自然災害伝承碑」について新たにマークが作られることになりました。
 2019年3月15日以降、市町村等の地方自治体に情報提供を受け、自然災害伝承碑と判明した碑については順次表示が切り替えられていくとのこと。
 これから先、世代が変わって記憶が薄れていっても、地図に自然災害伝承碑が明記されていれば何かの災害がそこであったということだけは伝わっていきます。
 こういう形で地図に災害の記録が残されていくということはすごいことなのではないかなと思います。

今回追加される「自然災害伝承碑」のマーク。碑の中に縦線が入っている

 今後「碑」の中にこういう記号を見つけたら、そこで過去に災害が起きたのだなと思っていただければ、これから先の備えにもなるような気がします。
 さまざまな情報提供も考えられているようですので、気になった方はぜひ下記のリンクから国土地理院のホームページをご確認ください。

http://www.gsi.go.jp/bousaichiri/bousaichiri190315.html

活断層を見てみよう・弥栄断層

 先日、日原の人と話をしていたときに、国道9号線の下に活断層があると聞いて調べてみたら、弥栄断層のことでした。
 この弥栄断層は浜田市弥栄町から津和野町青原にかけて伸びる活断層で、この断層の上を国道9号線と山口線が一部区間走っています。
 場所は津和野町にある青野山の麓から津和野町日原の国道187線分岐まで。

青野山から日原方面を望む。眼下の山に挟まれたところが断層部分

 その先は日原の町を通って奥にある須川谷という集落から国道488号を交差し、日晩山の麓を抜けて美都町都茂の集落を抜け、国道191号を一部跨いで弥栄町にたどり着きます。

大神楽から益田市美都町都茂方面を望む。見づらいが、山の間に見えるのが国道191号。益田市美都町宇津川の手前まで断層の上を通っている。

 google-earthで確認していただくとよくわかりますが、青野山の益田側から浜田市弥栄まで不自然にまっすぐ伸びている場所がありますが、これは活断層が動いたことによりできた直線です。
 こういう直線の地形は工事の効率がよかったため、この活断層に沿って道路や線路が作られることがよくありました。
 有名な場所では、中国縦貫道が走っている山崎断層がありますが、ここも同じように断層が作った地形を利用して道路と線路が作られています。
 この断層が動いた場合、断層直上は震度6強の揺れが起こるというシミュレーション結果が出ていますが、地震自体は直下型のため、震度以上の被害が出ることが予想されます。
 ここが断層で右横ずれしたいうことはわかっているのですが、いつ動いたものかについてははっきりと分かっていません。
 もし通ることがあったら、かつてここで大きな地震があったのだろうなと思いながら見てみてください。
 なお、弥栄断層については青野山を挟んで反対側に地福断層というのも存在します。
詳しくは以下のサイトをご確認ください。

http://gbank.gsj.jp(活断層データベース)
https://www.jishin.go.jp/yasaka_jifuku

プレート境界型地震と活断層型地震

今話題の南海トラフ地震ですが東日本大震災と同じプレート境界型地震で、確率的には30年以内に起きると言われているようです。
わかっているのは確実に起きるということだけで、それがいつかは誰にもわからないというのが今の状態です。
そして、南海トラフ地震が騒がれている中、2018年は島根県西部地震、大阪北部地震、胆振東部地震など大きな地震が続きました。
こちらは活断層型地震でいずれも予測されていなかったところで起こりました。
今回はこのプレート境界型地震と活断層型地震について整理してみたいと思います。

1)プレート境界型地震の起こる原因

日本は4つの大陸プレートがぶつかる場所に存在しており、これらのプレートの動きによって日本では地震がよく起きます。
このうち、太平洋プレートとフィリピン海プレートが北アメリカプレートとユーラシアプレートに潜り込んでおり、この境界部分で潜った地面が壊れたり元に戻ろうとしたりすることで地震が発生します。
これがプレート境界型地震と呼ばれるものですが、海底で起きるためこの時の反動が海に伝わり大きな津波も起こることがあります。
特に太平洋プレートとフィリピン海プレートは動きが活発なため、地震が発生する周期は数十年から数百年と割と短く、規模の大小はあれ確実に起きることがわかっています。
また、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境でも衝突が起きているのですが、お互いに押されている力がさほど強くないため、そこまで頻繁に大きな地震が起きるところまでは行かないようです。

プレート境界型地震のイメージ図

2)活断層型地震の起こる原因

これらのプレートが互いに押し付けあうことで陸地のあちこちには歪みが生じます。その歪みに耐えられなくなったことにより発生するのが活断層型地震です。
十万年以内に動いた形跡のある活断層帯には名前が付いていますが国内だけで約2000カ所あり、まだ見つかっていない活断層もあることから日本国内のどこで起きてもおかしくないとされている地震です。
割合表層で起きることが多いことも特徴です。

3)地震の規模と被害の起き方

プレート境界型の地震は一般的に巨大です。激しい揺れが数分間続き、かつ数十年から数百年という短い期間で再発するものが多いようです。
日本の場合は海底で起きることが殆どのため、直接的な揺れよりもそれに付随する津波の方が危険かもしれません。
対して活断層型の地震はプレート境界型ほどの強さと揺れる時間の長さはなく、発生する間隔もかなり長いのが特徴です。
活断層型は「正断層」「逆断層」「横ずれ断層」の3つのパターンがあり、日本列島ができた経緯によるものか、フォッサマグナから東では「正断層」「逆断層」タイプが、西では「横ずれ断層」が多いようです。
「正断層」「逆断層」はその場で上下にずれるため、局地的に激しい揺れと被害がでます。
また「横ずれ断層」は理論的にはどこまでも伸びることが可能なので、一定方向に向けて被害が拡がる傾向があります。

断層の動きは東と西でかなり違うようです。

4)どこまで予測できるか

プレート境界型地震の場合は震源からある程度距離があるため、緊急地震速報が有効です。
また、発生する間隔が数十年から数百年ごとのため、誤差は生じますが起こる時期の予測もある程度は可能です。
ただ、深々度で発生したプレート崩壊による地震は予測が難しく、緊急地震速報が鳴る前に揺れ始めることが多いです。
活断層型地震は表層で起きることが多いため、震源直上周囲では緊急地震速報が鳴る前に揺れ始めることが殆どです。
また、再発する間隔が数十年から数十万年とまちまちなため、次にいつ起きるかは誰にもわかりません。

日本に住んでいる以上、どこに住んでいても地震に遭う確率は0%ではありません。
そして、予測できない地震がどこで起きてもおかしくない以上、備えも必要だということなのでしょうね。