阪神淡路大震災に思う

1995年1月17日午前5時46分。
淡路島北部の明石海峡を震源とする阪神淡路大震災が発生しました。
その時は益田の地でもぐらりとした揺れがあり、寝ていた私も目が覚めて何が起きたのかわからずにきょろきょろと辺りを見回したものです。
その後、どうやら神戸の方で大きな地震があったらしいという話が聞こえてきたものの、特に被害の話は聞かなかったのでそのまま関東地方へ出張に出かけました。
「鉄道は止まっている」という情報は入っていましたが、そんなに甚大な被害とは思わず飛行機で東京へ。
神戸の惨状を知ったのは、出張先で仕事を終えて入った宿の食堂のテレビからでした。
大阪や神戸から来ていた人達もその場にいたのですが、テレビから流れてくる映像に言葉もなく茫然となっていたのを今でもはっきりと覚えています。
その後、彼らと一緒になんとか現地の情報がわからないかと画策するのですが、今と違って携帯電話やインターネットがさほど普及していたわけではありませんからとにかく情報がない。
国や政府ですら、全容が把握できていない感じでした。
この時に思ったのが、災害については「情報が無い=問題ない」ではなく「情報が無い=発信できないほどの被害を受けている」ということなのだということです。
情報が出せない地域にどのように情報を取りに行くか。
マスメディア、特にテレビは「絵として使えるひどい状況」ばかりを伝える性格を持っています。
直接影響のなかった人達への見世物としてはいいのかもしれませんが、被災者がその映像を見てさらに落ち込むという悪影響は残念ながら現在も配慮されていない気がします。
今はSNSが発達しました。そのおかげで、さまざまな情報が発信されるようになり、丹念に拾っていくと早い段階で全容が見えるようになっています。
また、行政側もいかに素早く情報を出していくかという努力を続けてきたので、かなり早い段階でそちらからも全容がわかるようになっています。
ただ、あちこちからさまざまな情報が発信されるようになった結果、今度は欲しい情報が埋もれてしまうという事態が起きるようになりました。
あの「情報が無い」という焦燥感からすると隔世の感がありますが、どうやって必要な情報を手に入れていくか、今はそれを模索している状態です。
阪神淡路大震災当時、私の知り合い達も神戸や大阪、その近郊に住んでいました。
連絡手段が限られていたこともあり、現地の知り合いの安否が全て分かったのは数ヶ月後。
私の知り合い達は怪我くらいで済みましたが、その知り合い達は殆ど何らかの形で自分の知人や友人を亡くしていたことも聞きました。
あれから24年が経ちますが、災害への対応力というのは挙がったのでしょうか。
建物はその後も続く地震により耐震性がより強化され、ちょっとやそっとでは崩れないものになっています。
でも、住んでいる私たちの考え方や備えはどうだろうか。
当時は「想定外」といえたことも、今は「想定内」になっています。
災害への備えと、生き続けるための段取り。
この日が来るたびに、自分にその準備が出来ているかを問いかけています。