当研究所では、活動の中で子ども達に焚き火を作らせることがあります。
メタルマッチや火打ち石を使うこともありますが、ほとんどの場合はマッチやライターなど、火を作れる道具を使って着火しています。
ただ、最近の子ども達の中にはマッチやライターを使えない子が増えてきています。
理由は簡単で、日常生活でそれらを使うことも、使っている人を見ることもなくなっているから。
マッチやライターを使ってたばこを吸う人もあまり見なくなり、野焼きは禁止、家庭では電気調理器が主力となっている時代ですから、それは仕方の無いことであり、出来ないことが「当たり前」なのです。
使い方を説明してやらせてみると、そのうちには上手になって、今のところは体験した子は全員、マッチ一本で焚き火を上手に起こせるようになっていますから、出来ない理由はやり方を知らなかったことだと言えます。
つまり、知る機会と実際にやってみた経験があれば、火をつけることは「当たり前」にできるようになるのですが、知る機会も体験してみる機会もなかったら、使い方すらわからないのは当然ということです。
使えるということは、その便利さも危険性も知っていないといけません。マッチやライターでやけどしたり、裸火で火に煽られたりすると、火は楽しいけど気をつけなければいけないということが体験的に理解できます
知らなければ、何が危ないのかもわかりません。そして、何か起きたときには致命的な事故を引き起こしてしまうのです。
刃物でもそうです。ナイフや鉈は、さまざまな場面で使うとても便利な道具ですが、同時に怪我したり場合によっては命を失ってしまうかもしれない危険なものでもあります。使ったことがあって切ると痛いことを知っていると、刃物の使い方は何も教えなくても慎重になります。
でも、切ると痛いことを体験的に知っていないと、その刃物が人に当たったときにどうなるかの想像はできないのではないでしょうか。
そういった意味では、現代の「危険なものは全て排除。見せないし近寄らせない」という思想は大事故を生み出す温床になっているのではないかという気がしています。
身体や頭を使ってえた経験は、簡単には忘れませんし、それがその人の行動規範となっていきます。
知る機会を増やしていくと、経験が増えてその人の持っている「当たり前」が変化していくのです。
ただ、残念ながら今の世の中では、知識を得る機会は多くても、経験を得る機会はかなり少ないと感じます。
例えば、最近流行の多様性も、実際に多くの人が一緒になって得手不得手をお互いに補い合うような経験をすれば、大騒ぎしなくても自然と理解できるものだと思っています。経験的に知らないものを知識だけで知ったことにするだけでは、多様性は「当たり前」にならないのではないでしょうか。
「当たり前」は知る機会や体験がどれくらいあるかで大きく変化してきます。
自分の「当たり前」が世間の全てに当てはまると思っていると、喧嘩になりますが、さまざまな経験をしていると「当たり前」の引き出しが増えて、自分と考えが異なる人がいても、「そういう事もあるよね」で済みます。考え方が異なる人が存在していることが「当たり前」になっているからです。
知る機会を増やして、たくさんの「当たり前」の引き出しを作ることができると素敵ですね。